今から1,550余年の昔、17代履中天皇の第一皇子市邊押盤皇子が皇位継承をめぐって大泊瀬皇子に殺害された。
市邊押盤皇子の長男億計王(24代仁賢天皇)、二男弘計王(23代顕宗天皇)、三男橘王並びに母親のはえ姫等は、大泊瀬皇子の迫害から身を守るため、倭から丹波へ市川大臣等に護られて避難した。
しかし、更に追手急なるを知り、億計王と弘計王は、母公の実兄の吾田彦と共に尾張一宮へ落ち延びた。
吾田彦というのは応神天皇5世の彦主人王のことで、彼も大泊瀬の迫害を受け一族離散の悲運に陥り、名前を変えていたのである。
夫人や娘の豊媛とは離れ離れになってしまったが、後に豊媛とは再会し、ここ一宮で一緒に暮らすようになった。
また、億計王と弘計王は、市川大臣と彦主人王等に護られながら別々の家で暮らすことになった。
歳月が流れ、弘計王(史実では彦主人王)と豊媛(史実では振姫)も成長し、二人の間に男大迹王(26代継體天皇)が生まれた。
彦主人王は男大迹王を安全な所に隠して養育しようと思い、最近嬰児を亡くした草平夫婦と、同じく女児を出産したばかりの兼平夫婦に生後僅か50日の男大迹王を託し、人里離れた土地へ出発させた。二夫婦はそれぞれ嬰児を背負い、苦難の末美濃の山奥に辿り着いた。
その後は言語に絶する生活を強いられたが、王は立派に成長し、乳兄弟の目子姫と結婚された。
そして、勾大兄と桧隅高田皇子が誕生された。
その頃、男大迹王等は都からの招きで根尾谷を去ることになった。そこで王は、住民との別れを惜しみ、桧隅高田皇子の産殿を焼き払った跡に1本の桜の苗木をお手植えになり、次の詠歌一首を遺された。
身の代と遺す桜は薄住よ 千代に其の名を栄盛へ止むる
ずっと後日、男大迹王は丹波の押盤邸に入られた。王の御父弘計王は、23代の顕宗天皇であったが在位3年で崩御され、続いて億計王が、24代仁賢天皇として即位された。
仁賢天皇は在位11年で崩御、次いで即位した25代武烈天皇は、皇継者が無いまま若くして亡くなられた。
その後を受けて男大迹王が天皇に即位され、ここに26代の継體天皇が誕生したのである。
継體天皇は、82歳で崩御されるまでの25年間が在位であった。その後、長男の勾大兄が27代の安閑天皇に、二男の桧隅高田王子が28代の宣化天皇に即位されたと云う。
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